ルカの福音書24章13〜35節

「主イエスと共に歩く教会」

 

 イエス様の二人の弟子が、エマオという村に向かっている。その会話にイエス様が加わるが、その人がイエス様だとわからない。二人の目は「さえぎられていて」いたのだ。

 彼らはイエス様に民族の解放を夢見ていた。その夢を追いかけて弟子になっていた。しかしイエス様は殺され、独立の夢は泡と消えた。みことばによれば、救い主は苦しみを受けることは明らかであったが、彼らは自分たちの夢にとらわれていたために十字架を見ても悟ることができず、この時も共に歩いてくださるイエス様にわからなかった。

 イエス様はそんな彼らを「心の鈍い人たち」(理解の遅い人)と言いつつ(25)、聖書全体から救い主の受難について説き明かして下さった(27)。このようにイエス様は、理解するのが遅い弟子たちに寄り添い、伴走される。決して見捨てることなく、みことばを語り続けてくださるのである。

 私たちは、あの二人を笑えない。信仰における物わかりの悪さ・心の鈍さは、私たちも同様ではないだろうか。しかしイエス様はそんな私たちと共に歩んでくださり、何度も・何度でもみことばを語り続けてくださる。

 イエス様が十字架から復活の道を歩まれたように、イエス様の弟子である私たちも十字架から復活の道をゆく。私たちはどんな困難に直面して、その十字架を背負うことに疲れ果てることがある。しかし必ず、復活の朝が訪れる。イエス様は、復活に至るまで十字架の道を共に生きてくださる。そして、私たちを復活の恵みにあずからせてくださるのである。

 

「…イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。」(ルカ24:15)