ルカの福音書24章13〜35節

「目が開かれて」

 

 二人の主イエスの弟子たちが、エルサレムからエマオへと向かっていた。約11kmの道のり。時は、主イエスがよみがえったらしいという知らせを聞いた日の夕刻。二人は道を急ぎながら、主イエスのことを語ったり論じ合ったりしたが、どうもつじつまが合わない。そんな二人へ主イエスが近づき、会話に混じった。どういうわけか二人の目は遮られていて、そこに主イエスがいることに気が付かない。主イエスは彼らと共に歩きながら、救い主についてみことばを通して語った。二人はみことばを聞くうちに心が燃やされ、食卓でパンを受け取った時に「彼らの目が開かれ、イエスだとわかった」(31)。主イエスは本当に復活された。

 二人の弟子たちの姿は、教会と重なって見ることができる。彼らは主イエスを救い主として信じていた。主イエスの十字架も目の当たりにした。復活のことも「イエスさまは見当たらなかった」と報告を受けていた。しかし、なお主イエスについての確信を得られない。主イエスの十字架と復活の意味を悟れない。この点は私たちも同じなのではないか。主イエスの十字架と復活を知りながら、その理解において浅く・応答において鈍いのである。

 しかし主イエスがあの二人の弟子たちと共に歩き、聖書全体から語ってくださったように、主は私たち教会と共に人生という旅路を歩き、みことばを通して語り続けてくださる。この時、主イエスは“お姿を見せることによって”ではなく、“聖書全体から語ることによって復活をわからせた”点に心を留めたい。実に今、主イエスはみことばを通して聖霊において語っておられる。私たちは主イエスをこの目で見なくても、聖書全体を学ぶことを通して、“主イエスに出会い・知る”恵みをいただくことができる。

 “主イエスを知る”ことは、自分の人生をかける価値がある。そこには無限の深さがあり、聖書を読む喜びと神様を知る感動がある。イースターの朝、死を打ち破って復活された主イエスは、今もみことばを語りながら私たちと共に歩んでいてくださる。

 

「話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。」(15