レビ記1章1〜17節

「焼き尽くすささげもの」

 

 レビ記1章は、全焼のいけにえについて語っている。これは、その名前の通り、すべてを焼き尽くして煙にするささげものであり、礼拝者の献身を表すささげものである。

 献身とは、神様に自分のすべてをささげることである。牧師や宣教師だけが献身をするのではない。キリスト者は皆、神様に自分自身をささげる。礼拝を大切にするために時間を作る。みことばに聞き従い、神様を知ろうと探求する。人生の最期まで神様に信頼し、自分のいのちをかけて従っていく。「いつも」「すべて」を神様にささげる歩みである。

 全焼のいけにえは、ささげる人の経済に応じてささげる動物が決められていた。雄牛をささげられない人は雄羊か雄やぎを、それも難しい人は山鳩か家鳩のひなをささげることができた。私たちの献身の歩みも、人それぞれである。人と比べることなく、自分の精一杯をささげることに心を配る者でありたい。それぞれの事情に応じた、それぞれの「いつも」「すべて」を神様は喜んで受け取ってくださる。

 いけにえをささげる時、ささげる人は動物の頭に手を置く。これは、その動物と自分が一体であることを示す。そして、その動物を自分の手でほふる。その行為は、いけにえによって自分が一度死ぬことであり、また新たに生きることを意味している。私たちは日々、昨日までの自分を捨てて、新しくされた今日の自分を神様にささげて生きる。そのような歩みが、私たちの「霊的な礼拝」である。

 

「私は神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」ローマ12:1