レビ記1章1〜9節、2章1〜3節

「主へのささげもの」

 

 レビ記1,2章には、ささげ物の規定が記されている。

 神様はイスラエルの民を受け入れ、この民をご自身の喜びとすると決断された。民が神に不遜な態度をとっても、不実を働いても、罰するが見捨てず、関わり続け・愛し抜くと決められた。ささげ物は神のいつくしみに対する感謝として、また神を悲しませた罪への謝罪としてささげられた。

 ささげ物として牛や羊、鳩などが定められているが、これはそれぞれの財産に応じて選ぶことができた。神様が求めておられたのは、動物の肉や血ではなく、神に対する感謝であった(詩篇50)。

 神様は、“私たちが感謝をささげるために”、いけにえに関する規定を設けられた。「全焼のいけにえ」であれば、「家畜の中から牛か羊」をささげること。傷のない雄にすること。ささげる手順や所作に至るまで定められた。

 私たちは、神様へのささげ物であっても、自分の都合で妥協してしまう弱さがあるのではないか。“どうせ焼き尽くしてしまうのだから、病気の牛でも良いではないか”とか、“今は雄が少ないから雌にしてしまおう”というように。ささげ物は、ささげる人の心を写す鏡である。ささげ物の規定によって、私たちは自分たちの心を点検したい。

 神様がささげるように命じておられるのは、どれも“良いもの”である。不要なものや余りものではなく、自分が“惜しい”と思うようなものである。ささげ物を“もったいない”と思うこともあるだろう。しかし葛藤を乗り越えて、神様に命じられた通りに“良いもの”をささげ、神様の恵みに対する感謝を表したい。

 神様は、私たちが感謝を込めてささげ物をすることによって、私たちとの関係が豊かになることを願っておられる。神様は、ひとり子さえ惜しまずに死に渡してくださる愛によって、私たちを愛していてくださる。神様に“良いもの”をささげ、その愛に応答しよう。神様は私たちのささげ物を大いに喜んでくださる。

 

「わたしが雄牛の肉を食べ、雄やぎの血を飲むだろうか。感謝のいけにえを神にささげよ。」(詩篇50:13,14