使徒15章1〜11節

「救いの原則」

 

 キリスト者たちは迫害に屈せず福音を宣べ伝え、各地に新しく教会が誕生し、信者の数が増えていった。特に顕著だったのは、ユダヤ教を未経験のまま主イエスを信じた、異邦人キリスト者の登場であった。教会内には「異邦人にも割礼を受けさせ、モーセの律法を守ることを命じるべき」という意見もあったが(5)、パウロやバルナバはこれに反対した(2)。この課題を解決するため、エルサレム会議が招集された。これは最初の教会会議となった。

 

 教会で意見の対立が起きることがある。しかしこれは悪いことではない。教会を愛し、主イエスに従おうとするから意見が対立するのである。二千年にわたる教会の歴史には、様々な課題があったが、教会は教会会議によって御心を求めつつ歩んで来た。

 

 割礼と律法を重んじるのは、イスラエルの歴史から見て当然であった。割礼も律法も神のご命令であり、律法に従うことは神の祝福を受ける道であった。特にバビロン捕囚以降、イスラエルの民は律法を守ることで、神に祝福され・守られて来た。

 

 しかしパウロは、これに反対した。パウロ自身は律法を守る生き方をしていた。人が救われるのは、主イエスを救い主と信じること、この1点にかかっていると信じたのである。もし、救いの条件に律法遵守を含んでしまうと、“主イエスを信じても律法に違反したから救われない”ことになってしまう。人はただ、主イエスを信じることで、神に救っていただける。これが、聖書が教える救いの原則である。

 

 しかし主イエスを信じることは、律法を無視することではない。私たちは主イエスを信じる故に十戒を重んじる。毎週礼拝をささげるのは、「安息日を守れ」と十戒で教えられているからである。しかし私たちは、十戒を守ることで救われるのではない。主イエスこそまことの救い主であると信じる信仰によって、私たちは救われる。十戒を重んじても、実際には十戒を守れなかったり、十戒に背いてしまう私たちである。しかし主イエスを信じることで、神様は私たちを救ってくださる。私たちは「主イエスの恵みによって救われた」のである(11)