使徒8章1〜25節

「主イエスは共におられる」

 

 ステパノの殉教をきっかけにして、エルサレム教会に対する迫害が始まった。迫害の手は各家庭に及び、男性・女性に関係なく投獄された。使徒たちは決死の覚悟で教会に留まるが、信徒たちはいのちを守るためにエルサレムを離れ、ユダヤやサマリヤへ向かった。驚くべきことに「散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。」(4) 迫害によって信仰を隠すどころか、かえって福音を宣べ伝えながら、迫害から逃れたのである。

 

 キリスト者たちは、自分たちが福音の目撃者となっていることを自覚していた。アブラハムから始まる神との契約が、ついに時が満ちて、イエス・キリストにおいて成就した。この福音こそ、人類史上、最高・最大・最善の良き知らせであった。キリスト者たちは福音の証人として、この喜びを証しせずにはおれなかった。

 

 私たちはコロナウイルスにより、日常の安心を失い、礼拝に集えなくなっている(1/10は各家庭での礼拝とした)。しかしウイルスとの戦いがあっても、福音を奪うことはできない。当時の教会が迫害の最中で、福音を宣べながら逃げたように、私たちも福音の喜びに支えられて、頭を柔らかくして、今できることをさせていただこう。迫害の中、主イエスは教会を見捨てなかった。私たちも、主イエスが共に歩んでくださることを力にして、コロナ禍を越えて行こう。

 

 ピリポはサマリヤで主イエスを宣べ伝えた。サマリヤの人々は、ピリポの証しを通して主イエスに出会い、バプテスマを受けた。その後、ピリポはガザに向かい、エチオピア人の役人と出会う。この役人はエルサレムまで礼拝に通う熱心な改宗者であったが、ピリポを通して主イエスを信じた。こうして「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで」福音が宣教され(1:8)、主イエスの約束が成就したのである。

 

 迫害は厳しい現実であり、痛みを伴う出来事であった。しかし、迫害を通して神のご計画は実現に至った。私たちにもそれぞれに逆風があり、試みがあるだろう。しかし、そこから恵みが流れ出るかもしれない。あきらめずに、主に期待する者でありたい。