出エジプト記6章1〜13節

「主という名」

 

 ヤコブの一族70名がエジプトに寄留してから、430年の年月が流れた(12:40)。一族は爆発的に増え広がり、壮年男性だけで60万人(12:37)、全体では200万人の集団になった。エジプトの奴隷とされたイスラエルの民は苦役によってあえぎ、神様の救いを求めて祈った。神様は祈りに答えて、モーセを遣わした。

 しかし人々は、モーセを“神の器”として認めようとしなかった。かえってモーセは窮地に追い込まれた。エジプト王ファラオはモーセの言葉を受けて、イスラエルの民の労働をいっそう過酷にした。人々は労役と落胆のあまり、神に対して心を閉ざした(9)。モーセは神様に愚痴をこぼしながら訴えた。神様は言われた。「わたしがパロにしようとしていることは、今にあなたにわかる」(1)

 神様はこのみことばの通りに導いてくださった。不思議な奇跡を行って、“本当に神様が救ってくださるのだ”ということを人々に示してくださった。最初は心を閉ざしていた人々も、神様の救いを信じられるように導かれた。

 神様は「わたしは主である」と名乗られた(3)。「主」という名前は、神様が主体性を持っておられる創造主・救い主であることを示している。神様には人間と別の意思があり、神様のご計画がある。神様はご自分の判断で、そこに存在され・行動される。人間に依存せず、人間に左右されない主体的なお方である。

 そのような神様が、神様の意思で人を導き・人を救おうと決められた。しかも“人間の態度が不遜なら救うのをやめる”というギブ&テイクの関係ではなく、神様が主体的に“救う”と決断し、その決意を貫いてくださる。イスラエルの民を救いに導く姿は、まさしく「主」である神様の御業である。そして神様は私たちにも「わたしは主である」と語ってくださり、私たちが心を閉ざしてしまうことがあっても、救いへと力強く導いてくださる。救いは主にある。大きな気持ちで信頼してゆこう。

 

「それゆえ、イスラエル人に言え。わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う。」(6