創世記49章1〜11節

「王権はユダを離れず」

 

 ヤコブが召される日が近づいていた。ヤコブは子どもたちを呼び寄せ「終わりの日に、あなたがたに起こることを告げ」た(1)。それは一人ひとりに向けて与えられたみことばであり、祝福の約束だけでなく戒めや警告も含まれていた。

 ルベン、シメオン、レビに対しては戒めが語られた。ルベンは「水のように奔放」と言われる(4)。自制心を失い、欲望が氾濫してしまう性格が指摘される。シメオンとレビは「暴虐」への警告である(5)。妹ディナに対する復讐とは言え、残虐すぎる行為に対して「彼らの仲間に加わるな」と告げられる(6)

 ユダとヨセフには、祝福が語られる。ユダはヨセフを売った時の首謀者だったが、主の悩みの炉で練り聖められ、自分のいのちをかけてベニヤミンを救い出そうとする真実な人に造り変えられた。「王権はユダを離れず」とあるように(10)、ユダ族からはダビデ王をはじめとするイスラエルの王の系譜が出てくる。ヨセフについては、天の祝福・水の祝福・乳房と胎の祝福が語られる。

 これらの言葉は、神が定めた宿命ではない。「それぞれが主なる神と格闘しつつ乗り越えていくべき祝福の道」である(中井師)。“自分は祝福に決まっている”とおごり高ぶったり、“私は呪いの道だ”などと自分の将来を自分で決めてはならない。神様が置いておられるところで、神様と共に祝福への道を一歩ずつ歩みたい。

 ヤコブは自分の遺骸を先祖たちの墓に葬るように命じる(29)。これは信仰から出た言葉である。ヤコブは葬り先を指定することによって、自分が神を信じた者として死ぬ決意を表明している。ヤコブは自分の生涯を振り返り、「きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神」と語る(48:15)。まるで羊飼いのように、神は私を守り導いてくださった。ヤコブは晩年、最愛のヨセフを突然失う経験をした。虚しさを食べ物に、涙を飲み物にするような時間を過ごした。なお一層、“神に生かされた”という確信が強くされたのではないか。神は私たちにも羊飼いでいてくださる。

 

「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神。きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神。」(48:15