士師記21章1〜25節

「切り捨てられた部族」

 

 「イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」(25)これは士師記を締めくくる言葉であり、当時の混沌とした状況を物語るものである。聖書を読んでいるのに、聖書の価値観が壊されるような出来事が綴られている。

 ひとりのレビ人がそばめを迎えたが、そばめは夫を嫌い実家に帰る。レビ人がそばめを連れ戻しに行った帰り道、ギブアというベニヤミン族に属する町で夜になってしまう。親切な老人の家に迎えられ安心したのもつかの間、町の男たちがレビ人を求めて押し迫って来るが、レビ人は自分の代わりにそばめを差し出す。翌朝、そばめは命を落として倒れていた。レビ人は同情する素振りも見せず、その死体を切り刻んでイスラエル各部族に送り、自分を被害者に仕立てて、正義の裁きが下されることを求める。イスラエル各部族は感情的になり、ベニヤミン部族を消し去る戦争へと発展してしまう。イスラエルの民は怒りに燃えて殺戮を続け、女性や子どもの命を奪い町々を焼き払った。そしてベニヤミンの兵士600人だけが残された時、イスラエルの民は我に返り、泣きながら“ベニヤミン部族が失われてはならない”と言い出す(2,3)。苦慮した結果、ヤベシュ・ギルアデとシロという町から女性を強制的に連れてきて、残りの600人と結婚させることでベニヤミン族を存続させたが、これは新たな犠牲者を生むことになった。

 これらは皆、神から離れた混沌とした世界である。ボタンの掛け違い、想像を絶する不品行、正義に見せかけた自分本位の演出、感情に動かされた衝動的な行動、間違った方策と決断、すべてが「自分の目に正しいと見える」いわば自己流の正義感からなされたことであった。混沌の時代を生き抜くためには、聞き従うべき言葉が必要である。自己流の正義感を当てにせず、神のみことばを自分の行動指針にすること。そして、自己流の正義感に陥らないようみことばから繰り返し教えられ、みことばが約束する希望をしっかりと握って嵐の中を進んでいきたい。

 

 

「イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」(25