年間聖句③ ルカ18:9〜14

「罪人を義とするイエス」


 イエスは、たとえ話です。パリサイ人と取税人が神殿で祈る。パリサイ人は神への従順を誰よりも徹底していたが、神はパリサイ人を「正しい」と認めませんでした。ところが取税人が、罪を悔い改めて神に憐れみを求めると、神は取税人を「正しい」とされました。

 パリサイ人は「自分は悪から遠く離れ、すべてを神にささげているから、自分は神の前にも正しい」と、自分の行いや生き方を誇っていました。これは信仰者の罪です。神に罪を赦され・正しいと認められた自分を、心の中で誇る。聖書から学んだ知識で、無知な人をさげすむ。神に忠実であろうとしているのに、心が高ぶってしまう。私たちは誰も、この罪から離れることはできません。

 パリサイ人は「心の中で祈った」のですが、それは「自分に向けて祈った」ということです。外見的には祈りの姿勢を保っていましたが、その実は、自分自身を神に据え変えて礼拝したのです。神に正しいと認められるわけがありません。

 取税人は、祈りと言えないような姿勢でしたが、「罪人の私を憐れんでください」と祈りました(13)。これは、どん底からの叫びです。しかし、そのどん底の場所に、イエスがおられました。「あわれみ深い、忠実な大祭司となるため」イエスは人となられたのです(ヘブル2:17)。イエスは神のあり方を捨て、人間のどん底に来て下さり、どん底から神の憐れみを叫び求める人をご自身の義で包んでくださいます。

 

【聖書】13節「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』」