コロサイ3章16節

「キリストのことばを語り合う教会」

 

 使徒パウロは『コロサイ人への手紙』において、主イエスの十字架と復活による恵みを語っている。主イエスの十字架は、神との和解を私たちにもたらすものであり、主イエスには贖い(罪の赦し)がある。主イエスを信じて洗礼を受けることは、“神を信じない自分との訣別”と“復活のいのちによって生かされている者としての新生”を意味する。この恵みを受けた者として、パウロは私たちに「上にあるものを求めなさい」と勧める(3:1)

 

 「上にあるもの」とは、“天におられる主イエスが所有しておられる、あらゆる神の祝福”である。たとえば今年1年の歩みをお守りくださいと祈ることも、「上にあるものを求める」ことの1つである。また、自分が救いをいただけるか不安に思う時、救いのために祈るのも「上にあるものを求める」ことである。

 

 パウロは、私たちが“捨てるべき5つのもの”と“求めるべき5つのもの”を挙げる。捨てるべきものは「不信仰、汚れ、情欲、悪い欲、むさぼり」であり(3:5)、求めるべきものは「深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」である(3:12)。このような信仰の高みを目指して私たちが成長するために、パウロは3:16でこう語る。「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」

 

 私たちは個人的にみことばを求め、みことばを学べば、深い同情心や謙遜や寛容を身につけられるだろうか。礼拝で語られる説教を通して深く教えられ、心を動かされることで、慈愛や柔和を学ぶことができるのではないか。私たちは礼拝で語られた説教を“ただ聴くだけ”で終わらせず、説教を通して受け取った恵みを、自分の言葉で語る者でありたい。それが「キリストのことば」を教会の中に「豊かに住まわせ」ることになり、そこから「知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め」ることが起きるのではないか。そして説教の恵みを語り合うことから、「詩と賛美と霊の歌とにより」神を喜び、ほめたたえるようにされるのではないか。2022年、“説教の恵みを自分の言葉で語る”ことに取り組む1年としたい。