民数記24章10〜19節

「主のことばのとおりに」

 

 モアブの王バラクは、国境付近に滞在していたイスラエルの民に驚異を感じていた。戦争になれば敗北は明らかだった。バラクは祈祷師バラムを呼び寄せ、呪いの力でイスラエルを退けることを試みた。ところがいざ呪いの祈りをさせようとしても、祈祷師バラムは呪うことができず、かえって祝福を宣言してしまった。腹を立てたバラクは別の場所に祈祷師を連れて行くが、そこでも同じ結果に終わった。これを3度繰り返した後、バラクは怒って「敵を呪うために雇ったのに、祝福するとは何事か」と祈祷師を解雇してしまう。祈祷師バラムは「どんなに金銀を積まれても、主が告げることを告げなければならない」と反論する。

 バラクは自分の望む結果が出なかったことに腹を立て、祈祷師を解雇した。これは、結果を出さない神なら信じる価値はないという態度である。バラムには神に対する敬いがない。神に対する敬いがないために、結果で人を切り捨ててしまう。

 祈祷師バラムはプロの祈祷師として、イスラエルの神が告げることだけを告げている。しかし当のバラム本人は、イスラエルの神に従う気持ちは皆無である。バラムは自分の仕事ぶりに酔いしれるナルシストであって、その中核にあるものは自己愛である。

 この箇所は、結果だけを求める王と、自分の仕事に酔う祈祷師の交わることのないやりとりである。ここには何の実りもないように見えるが、そうではない。私たちはここに、父なる神が異教の祈祷師バラムを通して、イスラエルを守るために働いてくださったおかげでイスラエルが守られているのを見る。これはイスラエルの民がまったく知らない、舞台裏の出来事であった。

 ここから私たちは、父なる神が私たちの知らないところで様々な配慮をしてくださり、私たちの日々が守られていると教えられる。神の御子イエス・キリストを私たちのために与えてくださり、私たちが神の助けと祝福を得て生きることができるようにしてくださった。これが神の最大の配慮であると言えよう。

 人は神の配慮と恵みの中で生かされていると知ると、神を敬うようになる。神に対する敬いは、人を敬うことを教える。