第1コリント7章17〜24節

「キリストに属する者」

 

 コリントはローマ帝国内でも大きな都市の1つであり、ギリシア哲学が大きな影響を及ぼしていた。教会の中には、“主イエスを信じていれば、身体は欲望のままにふるまえば良い”という考えがあり、それが性的な放縦となって表れていた(5,6章)。このように極端な“やりたい放題”と同時に、極端な“禁欲主義”も存在した。つまり、“身体で為すことはすべて汚れているので、たとえ主イエスを信じていても禁欲的に生きなければ罪は赦されない”という考えである。

 パウロは「あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません」と語る(23)。どんなに禁欲的な生き方をしても、それで自分の罪は赦されることはない。私たちの罪は、“主イエスの十字架の死”という代価によって完全に償われている。それ故、私たちの心も身体も主のものであり、心で主イエスを信じ、身体で主イエスに従うことが求められている。

 主の御心は、私たちが「秩序ある生活」を送って、主イエスが自分を喜んでいてくださることを感謝し、主を喜んで歩むことである(32~35)。主イエスを信じる前から、主イエスは私たちを喜んで愛していてくださった。奴隷であっても・自由人であっても、割礼があっても・なくても、その人の過去がどんなものであっても、主イエスは私たちを愛しておられる。私たちに求められていることは、自分が主イエスに喜ばれていることを受け取ること。そして主イエスに喜ばれていることを喜ぶことである。

 パウロは「現在の危急のとき」を意識し(26)、主イエスが再びこの地上に来られる“再臨の時”を待ち望んでいる。再臨の時、私たちは永遠のいのちと新しい身体を与えられ、天と地は神の国として究極的な完成に至る。この日を待ち望むために、私たちは与えられた日々を「主が設けられた日」として、喜び楽しみたい(詩篇118:24)。そして主イエスの恵みを喜びたたえる者でありたい。

 

「ですが、私がこう言っているのは、あなたがた自身のためであって、あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろ、あなたがたが秩序ある生活を送って、ひたすらに奉仕できるためなのです。」35