テサロニケ人への手紙 第一 2章13〜16節

「神のことば」


 パウロは、テサロニケの人々に福音を語った。パウロの言葉を「人間のことば」として聞いた人もいたが、イエスを信じた人々は、それを「神のことば」として聞いた。今日でも、礼拝で語られる牧師の話を「人間のことば」として聞く人もいれば、「神のことば」として聞く人もいる。

 これは、聴衆が説教者を神のように拝むということではない。使徒12章に記されているように、時の民衆はヘロデ王の演説を聞いて、「神の声だ。人間の声ではない」とたたえた。これはお世辞だったかもしれないが、神はヘロデ王を厳しく罰した。神は、人が神とされるのを罰せられる。

 どのようにして牧師の話を「神のことば」として聞けるのか。それは、神が人間の語ることばを通して、ご自身をわからせてくださるという、神のわざによる以外にない。テサロニケの伝道において、神は生きて働かれた。

 神は、テサロニケ教会が直面した迫害においても、神のわざをしておられた。神は、迫害者たちのすることを罪として数え、その罪に怒っておられる。私たちは神の愛について聞くことが多いが、罪に対する神の厳しさも知らなければならない。神は、迫害者であったパウロさえ救われた、愛のお方である。しかし、罪を罰する義なる方でもある。

 神への恐れと神への親しみ。この両方の思いを心に持ちつつ、礼拝において神のことばを待ち望みたい。

 

「あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」(13節)