テサロニケ人への手紙第一3章11〜13節

「パウロの祈り」


 テサロニケの教会は、迫害によって萎縮するのではなく、かえって、主イエスを伝え続けた。キリスト者たちは、教会(と言っても、個人の家が集会所になった)に人々を招き続けた。迫害の中でも、教会の扉は閉ざされなかったのである。このような態度は人の力では不可能なことであり、祈りの力によるものであった(11)

 当時の人々が、集会所を教えるのに使われたマークの一つに、魚のマークがある。魚は、ギリシア語で「イクソス(icyuv , 大文字:ΙΧΘΥΣ)」と言うが、この頭文字を取ると「イエス(Ihsouv)」「キリスト(Cristov)」「神の(yeov)」「子(uiov)」「救い主(swthr)」となる。このようなマークが存在すること自体、迫害の中でも信仰を守り・イエスを伝え続けた証しと言える。

 パウロは、最後まで信仰を守り通すことができるようにと祈る(13)。その最後が、天に召される日になるか、主イエスの再臨になるかは、誰にもわからない。しかし、その時をどのような仕方で迎えたとしても、変わらない事実がある。それは、その人が主イエスに愛された者として天に引き上げられるということである。主イエスを信頼する者は、何者によっても、その人を主イエスの愛から引き離すことができないからである(ローマ8:3839)

 主イエスに愛された者として生きる人は、明日があるという可能性を信じる。そして、今日、自分のなすべきことを丁寧に・愛情を込めてするのである。

 

「私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。」(10節)