第一ヨハネ5章1〜5節

「世に勝つ者とはだれか」


 日本の社会において、毎週日曜日に礼拝することは戦いが伴います。働き続けた体を休ませたい。家の用事を済ませたい。たまには出かけたい。仕事も入る。家族から反対されることもある。行きたくないときもある。そういう状況の中で、礼拝を選んで教会に行く。行かない時には心を痛める。

 そこまでして礼拝することにこだわるのは、神を愛しているからです。神を畏れ敬うからこそ、礼拝を大切にするのです。しかし、礼拝を巡る戦いに疲れ、神を愛することが重く感じられることもあるでしょう。

 日本統治下の朝鮮で、神社参拝を強要することに対して信仰を守り通した教会のリーダーの一人に、朱基徹(チュキチョル)牧師がいます。その四男は、激しい拷問の末に獄死するまで信仰を貫いた父の姿を見ますが、そのような父を理解することができず、信仰を捨て教会から離れます。しかし不思議な導きによって教会に戻り、数人の聖書研究グループに加わります。そこで神を“父親の神”としてではなく、“私の神”と信じることを通して、信仰を回復し、父の殉教を理解することができたと言います。

 神を愛することには戦いが伴います。疲れ、誘惑、試練、怠け心、忙しさなど、「世」は様々な手段を使って私たちを神から引き離そうとします。しかし、私たちの信仰がどんなに小さくても、神が私たちの小さな信仰を通して働いてくださいます。その時、私たちは世に勝つことができ、神を愛する命令を喜ぶ者とされるのです。 

 

「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令とは重荷とはなりません。」(3節)