第1ヨハネ1:1〜10

「光の中を歩もう」

 

 「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」(3)「交わり」(ギリシア語:コイノニア)は、あるものを囲んで分かち合うことを意味する。教会の交わりは「御父および御子イエス・キリスト」を囲み、父なる神と主イエスを分かち合う交わりである。主イエスは「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる」と約束された(マタイ18:20)。キリスト者が2,3人集まるなら、一緒に食事をするのもバンド練習も主イエスがともにおられるコイノニアである。祈り合うことやみことばを分かち合うこと、聖餐式はなおさら、主イエスを分かち合うコイノニアである。

 ヨハネはこの手紙の読者である私たちを、主イエスを分かち合うコイノニアに招いている。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの」(1)と語り、私たちを主イエスの御前に連れ出そうとしている。そして、その交わりによって「喜びが全きものとなる」と語る(4)

 なぜ主イエスと交わると、喜びに満たされるのか。その秘密はヨハネ15:11にある。主イエスは「わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされる」と言われた。主イエスが私たちを喜んでいてくださる。その喜びが私たちに与えられるので、私たちは喜びに満たされる。

 主イエスが私を喜んでおられる。このメッセージをそのまま受け取りたい。この世界は、“喜ばれる理由”を要求する。私たちは、主イエスが自分を喜んでくださる理由を探すかもしれない。その理由がなければ、“私は喜ばれていない”と思い込むかもしれない。しかし主イエスは“神の愛”で私たちを喜ぶ。“神の愛”は理由を必要としない。主イエスに愛されていない人は、ひとりもいない。

 人は主イエスの愛を受け取ると、罪を手放したくなる。罪を隠そうとせず告白するなら、その人は神に赦され、光の中を歩む。

 

「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(7