テサロニケ人への手紙第二1章1〜12節

「感嘆の的となる方」

 

 テサロニケの教会は、主にある兄弟姉妹の愛で結ばれた教会だった。お互いの気ままさや小心などの違いを超えて励まし合っていた。それぞれがイエス様の弟子として、自分の十字架を負って主に従っていたのである。

 自分の十字架を背負う人は、自分の重荷を信仰によって受けとめ、朗らかに人を愛して生きる。人生の伴走者である主イエスは、自分にしかわからない悩みや重荷を共に背負ってくださる。その恵みに支えられ・生かされて、人に対しては朗らかに、愛を与えて生きることができる。

 テサロニケでは依然として迫害が激しかった。パウロは第一の手紙で「悪をもって悪に報いないように」と迫害に対して報復しないように勧めた(5:15)。それは神様が必ず悪をお裁きになるからである。神様は、迫害者に「永遠の滅びの刑罰」を報いとして与える(9)。その刑罰は二度と覆ることのない神様の判決であり、苦しみだけで希望がない世界に投げ込まれることである。このような報いを神様がくだされる故に、自らの手で報復することを控えるように命じられる。

 キリスト者は、人に報復したい気持ちを自分の十字架として背負って生きる。神様はその人を天の御国に迎え入れ、すべての戦いから解放してくださる。そればかりか、「あなたもわたしの栄光だ」と、罪人の私が神の栄光にあずかるようにしてくださる。イエス様を信じる人は、苦しみに対する大いなる報いを神様からいただくのである。

 

「その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって(聖徒たちの中で)栄光を受け、信じたすべての者の(中で)感嘆の的となられます。」(10節)