第2コリント12章1〜10節

「恵みは十分」

 

 コリントの教会には、偽教師たちが入り込んでいた。彼らは神秘的体験を誇って聞かせて、自分こそ本物の教師だと信じさせようとしていた。パウロは偽教師たちの悪巧みを打ち砕くために、敢えて「あるひとりの人」という匿名で自身の神秘的体験を語る。パウロは神様からいただいた恵みを、自分の自慢話にすることはなかった。むしろ“教会のためならどんなことでもする”ということが、パウロの誇りであった。

 パウロは神様から「一つのとげ」が与えられていることを告白する。そのとげはパウロを苦しめた。そのとげがなければ、もっと神様のために働くことができたはずである。とげが取り去られることは神様の御心にかなっていると思われた。パウロは何度も祈ったが、その祈りの答えは意外だった。神様は「わたしの恵みは、あなたに十分である」と言われた。これは、神様の恵みは今のあなたに満ちているのだから、とげのあるままでいなさいということである。なぜなら「わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるから」である。パウロがとげで動けなくなっている時があっても、神様がすべての状況に働いておられる。神様は自分の回復を祈るよりも、神様を信頼することを求められたのであった。

 パウロが学んだのは、「キリストの力が私をおおう」ということだった。口語訳聖書では「キリストの力が私に宿る」となっている。とげがあるままの私に、主イエスが宿っていてくださる。その恵みを教えられたのである。

 創立51周年を迎えた私たちの教会にも、このみことばが与えられている。教会の課題や弱さはあるが、主イエスは「恵みは十分」と言われる。ここには主が宿っていてくださるからである。弱さを取り去るように祈るのではなく、主イエスの力が教会をおおうことに期待し、恵みを数えて歩みたい。

 

「しかし主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ喜んで私の弱さを誇りましょう。」(9