箴言6章1〜23節

「ともしび、光、いのちの道」

 

 箴言は、主を恐れることを教える教科書である。一節の言葉は短いが含蓄豊かであり、生きるための知恵に満ちている。

 「『恐れることを知る生活』は尊いと思います」と語った人がいる(羽鳥明『今日の知恵、明日の知恵』)。人は、恐れるものなどない方がいいと思うものだろう。何かを恐れて我慢を強いられたり、したいことを制御されるのは好ましいことではない。しかし、主を恐れることで、数多くの過ちや愚かさから自分が守られる。確かに、主を恐れることは尊いと言える。

 人間は、“抑えがたい衝動”を経験することがある。たとえば6節以降には「なまけ者」について語られるが、人間にとって「怠ける」ことは抑えがたい衝動のひとつである。誰でも嫌なことを後回しにしたり、面倒なことを人に押し付けたことがあるだろう。アリのように勤勉に働き、先を見越して今できることをするのは、箴言が教える“主を恐れる者の知恵”である。

 また人間にとって、悪意を成し遂げたいと思うことも“抑えがたい衝動”である。自分の目的遂行のためであれ、仕返しのためであれ、“人をおとしめたい”と思う気持ちは激しい。しかし衝動にかられて行動しても、必ず滅びを刈り取ることになると警告される。

 人にとって一番大きな衝動は、人に惹かれる気持ちであろう。間違った相手との色恋沙汰、周囲に反対されている関係など。「父の命令」「母の教え」を心にも首にも結びつけ、神様のみことばで自分を縛り付けよと教えられるが(20-23)、それ程、人に惹かれる気持ちは強く激しい。もし「訓戒のための叱責」によって「いのちの道」に引き戻そうとしてくれる人がいるなら、その人は幸いである。その人は、主のいのちの養いを経験するからである。

 私たちは自分の罪を教えられ、過ちに気付く時、同時に主イエスによる赦しと回復が備えられている。そして主を恐れる者として、新たにされるのである。

 

「命令はともしびであり、おしえは光であり、訓戒のための叱責はいのちの道であるからだ。」(23