箴言2章1〜22節

「主の知恵、正しく歩む者の盾」

 

 箴言の作者は、「わが子よ」と読者に語りかける(1)。この呼びかけには、神を信じて人生の日々を生き抜いた先達たちの祈りが込められている。そして、“あなたに良き人生があるように”と祈りつつ、知恵を求めることを命じる。知恵を受け入れなさい、知恵を蓄えなさい、知恵に対して耳を傾け・心を向けなさい、知恵を呼び求めなさい、知恵を探し出しなさい。このように言葉を重ねて、知恵を求めることの重要性を説いている(14)

 

 “知恵を求める”とは、ただ賢くなることではない。箴言が命じているのは“神の知恵を求めること”であって、「主を恐れることを悟り、神の知識を見出す」ことである(5)。端的に言えば、“神を恐れ、神を知ることを求めよ”ということである。

 

 人間は神に対する罪のために「ねじれごと」がある(12)。これによって、様々なところで“ねじれ”現象が生じる。たとえば、自分には甘いのに他人には厳しくする。自分と同じように、他人にもやさしくすることは難しい。また自分を大切にしたいと思うのに、自分を赦せないで傷つけることがある。人の言葉や態度を信用できず、“何か裏があるのではないか”と勘ぐってしまう。

 

 私たちは礼拝において、みことばを学ぶ。そして、このような“ねじれ”が自分にあることを認めつつ、そんな自分にどう向き合えばよいかを考える。その解決の糸口は、私たちに対する神ご自身の姿勢にある。神は私たちを赦して受け入れ、みことばを通して招いておられる。そのような神の姿勢から、私たちは自分が大切な存在であり、神に愛されていることを学ぶ。神の愛によって、私たちは「主を恐れること」を知る。そして神を敬い、神に信頼し、神に従うことを教えられていく。

 

 主を恐れることを学ぶと、悪の道から守られる。悪の道は、主に従うことをやめさせ、「悪いねじれごとを楽しむ」(14)。その道は「死」または「やみ」につながる(18)。私たちはこのような道に流されることなく、「良い人々の道に歩み、正しい人々の道を守る」ようにしたい(20)。一人では弱くても、教会につながることで守られる。主を恐れる人々と、この道を進みたい。