箴言23章1〜11節

「神に贖われた者として」

 

 この箇所は「あなたが主に撚り頼むことができるように」という目的で記された「三十句」の一部である(22:19,20)

 

 「あなたが食欲の盛んな人であるなら、あなたののどに短刀を当てよ。」(2) この「食欲」とは“魂”を意味する言葉である。食欲に限らず、“魂から手が出るほどに求めるものがあるならば”という意味であろう。そのような時には、「あなたののどに短刀を当てよ」と言われる。全力で自分をコントロールして、自制しなさいということである。

 

 「富を得ようと苦労してはならない。」(4) これは富の奴隷のようになり、富のためにすべてを使い尽くすことへの警告である。どんなに富を頼りにしても、富は「鷲のように天へ飛んで行く」(5)。私たちは「自分の悟りによって、これをやめよ」、つまり自分で自分を点検せよ、と言われる。神に仕え、神を頼りにする人は、神が報いてくださる。神は見捨てることはなさらない。

 

 「貪欲な人の食物を食べるな。」(6) 「貪欲な人」は「勘定ずく」な人であり(7)、すべてにおいて徳か損かを計算している。これはどの人にも当てはまる一面ではないか。しかし神は、そんな私たちにアガペーという愛を示してくださった。アガペーは神の愛であり、計算なしの愛、与えた分の見返りを求めることなく、与えた上にさらに与える愛である。神はご自身のひとり子イエス・キリストを与えてくださり、私たちに対する愛を示された。私たちは計算ずくの愛に慣れすぎて、神の愛を疑いの目で見てしまうが、聖霊の助けによってアガペーの愛を受け入れることができる。

 

 11節に「贖い主」と記されている。贖うとは代価を払って回復させることである。神は私たちのために代価を払って、私たちを罪の奴隷から神の家族に回復させてくださった。その代価とは、主イエスご自身であった。主イエスという、値段が付けられないほど尊いお方が、私を救う代価となってくださった。実に「わたしの目には、あなたは高価で尊い」とあるように(イザヤ43:4)、私たちは高価で尊い代価によって、神に贖われた者である。このアガペーの愛に感謝して、神の愛に応えて生きよう。