箴言30章1〜9節

「神を知るための道」

 

 作者は「私は人間の中でも最も愚かで、私には人間の悟りがない。私はまだ知恵も学ばず、聖なる方の知識も知らない」と語る(2,3)。何かのきっかけで、“自分は神を知っているつもりだったが、全くわかっていなかった”と思い知らされたようである。

 

 ヨブもこの作者と同じような経験をしている。ヨブは厳しい試練を与えられた人であったが、信仰を捨てることなく、むしろ“なぜ自分がこうなったのか、神と論じ合いたい”と語っていた。神はヨブ記38章で、長い沈黙を破ってこう言われる。「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか」(ヨブ38:2)。そして神はヨブの前に天と地、海などを次々と例に挙げて、“これは誰がこのようにしたのか”と問いかけられた。ヨブは神の問いかけを通して、“自分は神を知っていたけれども、神を恐れることがわかっていなかった”と思い知らされた。

 

 私たちは、神を恐れることをわかっているだろうか。“自分は神を恐れているのか”。この問いかけは、YesNoで答える問いではない。私たちが問い続けるべき問いである。“自分は神を恐れているのか”と問いながら自分の歩みを点検し、神を恐れることを学んでゆく。そこに、神を恐れて生きる道が拓かれる。

 

 しかし、どんなに自分を厳しく見つめても、それで主を恐れるようにはなれない。5節に「神のことばは、すべて純粋。神は拠り頼む者の盾」とあるように、みことばから学び、みことばを頼ることで、私たちは主を恐れることを知るのである。

 

 6節に「神のことばにつけ足しをしてはならない」とある。みことばに“つけ足しをする”とは、みことばを自分の都合に合うようにアレンジすることである。ここでは、“誰が主人になっているか”ということが問われる。みことばに“つけ足しをする”と、自分が主人になってしまう。しかし、みことばは神の言葉である。みことばを主人として、みことばに従い、みことばを頼る。そうすると、みことばが私を助け、私を守り、神を恐れて生きるように導いてくださる。“私は主を恐れているか”と問いかけながら、みことばを頼ることを学びつつ、主を恐れて進んでいきたい。