詩篇135篇1〜21節

「主の宝とされた民」

 

 「ハレルヤ」とは、神様を賛美する世界共通の言葉である。「ハレル」は「賛美せよ」、「ヤ」は「主を」となる。「ハレルヤ」は、「主なる神を賛美せよ」という意味である。

 詩篇135篇では、「主のしもべたち」または「主の家で仕える者たち」に「ハレルヤ!主の御名をほめたたえよ!」と賛美への呼びかけがなされている。「主の家で仕える者」とは、一般の礼拝者たちのことである。礼拝は神様に仕えること、神様への奉仕であって、礼拝者は「主に仕える者」である。

 神様を礼拝できる恵みを、まるで川の水源を探るようにして求めていく。その恵みの源として私たちに示されたのは、「主はヤコブを選び、ご自分のものとされ…」とあるように(4)、神様が私たちを選んでくださったということである。

 「ヤコブ」とは、イスラエル民族のルーツとなった人の名前である。「主はヤコブを選び」とあるように、その人が神を知る以前から、神様の側ではその人を選んでおられた。人が主イエスを信じるには、100人いれば100の道がある。しかし、その恵みの流れを水源へと辿っていけば、そこには「主はヤコブを選び」という一つの泉がある。実に神様は、私たちがまだ神様を知る以前から、私たちのことを知り、救いの恵みに招いておられた。

 このような神様の主権による救いを、聖書では「選び」と呼ぶ。世の中の「選び」は、選ばれる人に選ばれる根拠がある。選ばれることは名誉であり、自分の誇りとなる。しかし聖書の「選び」は、人間の何ものをも根拠にしない、神様の決断による選びである。だからこそ、“自分には神様に選ばれるだけの価値がない”と思うことがあっても、その救いは揺るぐことはない。なぜなら、神様の決断で与えられた恵みだからである。私に根拠を置かない・神様の主権による救いだからこそ、確かなのである。このような恵みに感謝して、「ハレルヤ」と主を賛美しよう。

 

「まことに、主はヤコブを選び、ご自分のものとされ、イスラエルを選んで、ご自分の宝とされた。」(4