詩篇131篇1〜3節

「安心して主を待つ」

 

 この詩篇は巡礼者たちが歌った「都上りの歌」である。しかし巡礼者たちにも、自分を誇ろうとする誘惑は、心の小さな隙間から忍び込む。たとえば“巡礼は何回目か”という会話は、一見ごく自然に見えるが、時に人間的な誘惑になっただろう。常連者たちは、ついつい自分の豊かな経験を披露したくなっただろう。反対に初心者はさげすまれたり、みじめな思いをしたかもしれない。このようなことは、どこの世界にもありえる光景ではないか。

 

 しかし作者は「主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません」と(1)、自分を誇ろうとする誘惑に対して「誇りません」「高ぶりません」「深入りしません」と訣別の言葉を語る。その代わりに「乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように私の前におります」と、神を待ち望んでいる。

 

 「乳離れした子」という表現には、“お腹をすかせた赤ちゃんが泣き叫ぶような姿ではなくて”という意味が含まれている。これは“自分に必要なものは母親が用意していてくれると安心する”という意味である。つまり作者は、“人からのほめ言葉や自慢することから離れても、必要なことは神がすべて備えてくださるから、安心して主を待ち望みます”と言うのである。作者はこの時、人からの評価やほめ言葉によってではなく、安心して主を待つ望みに生きていた。

 

 「イスラエルよ、今よりとこしえまで主を待て。」(3) 立ち止まって人と比べることをやめ、神のことばに耳を傾けよう。神は迷い出た一匹の羊を見つけて喜ぶお方であって(マタイ18:13)、あなたの存在を喜んでおられる。

 

 そして神は私たちに“できること”を分け与えてくださった。私たちは「おのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて」(ローマ12:3)、できることを精一杯させていただこう。身体には口や手や胃などの各器官があり、それぞれにできることを十分にすることで健康が保たれる。同様に、神がそれぞれに与えておられる“できること”をいたずらに比較したりしないで、それぞれがしっかりやる。これが教会の益になり、神の喜びになる。