詩篇111篇1〜10節

「主を恐れるという道」

 

 詩篇111篇は、イスラエルの民がバビロン捕囚からエルサレムに帰還した時期に作られたと言われる。バビロン帝国に強制的に移住させられ数十年が経った頃、神は奇跡的にエルサレムに帰る道を開かれた。神に志を与えられた者たちはバビロンでの生活に区切りをつけてエルサレムへ戻ったが、神殿の再建や城壁の修復などの労苦に加え、様々なトラブルや将来への不安など、厳しい現実に直面していた。そんな中、作者は決意したように言った。「ハレルヤ。私は心を尽くして主に感謝しよう」と(1)。これは神の救いを待ち望む祈りであり、神への信頼を表す宣言であった。

 

 作者は出エジプトの出来事を想起する。その昔、イスラエルの民はエジプトで奴隷であったが、神は数々の奇跡を与えてイスラエルの民をエジプトから救い出してくださった。この救いの奇跡は過越の祭りとして祝われ、“自分たちには救いをくださった神が共にいてくださる”という歴史的事実を確認する機会となった。

 

 イスラエルを救った神が、私と共にいてくださる。神はどんな人であっても、決して見放さない。イスラエルの民は何度も神に背いた。神は警告の意味で罰を与えることはあっても、イスラエルを見捨てることはなさらなかった。神は民に戒めを与えて行くべき道を示し、神ご自身もその戒めを守られた。神は今も戒めによって自分の過ちに気づかせ、神に帰る道を示しておられる。神は“決して見捨てない愛”で、私たちを受け入れてくださった。

 

 「主を恐れることは知恵の初め。これを行う人はみな、良い明察を得る。」(10) 「良い明察を得る」とは物事をよく考え、何が真実であるかを見定めようとすることである。そして「良い明察」は「主を恐れること」から始まる。神から目を離さずに、神がおられると信じ、神の救いを待ち望む。神に従い、神の約束に期待する。そのような視点と姿勢で、この世の事柄を見つめ・判断し・決断する。「良い明察」は、そこから得られる。

 

 私たちの歩みは続く。しかし私たちは孤立していない。私たちには神がおられ、共に神を礼拝する人たちがいる。神を信頼して宣言しよう。「ハレルヤ。私は心を尽くして主に感謝しよう。」(1)