詩篇145篇1〜21節

「王なる神を賛美する」

 

 「私の神、王よ。私はあなたをあがめます。あなたの御名を世々限りなく、ほめたたえます。」(1) 作者は“私の神は、王であられる”と告白する。この詩篇はバビロン捕囚から解放された後に作られたと考えられる。となれば、当時イスラエルはペルシア帝国に支配されており、ペルシアの王に忠誠を誓う状況であった。しかし作者は、そのような中、“私たちの神こそ、本当の意味で自分たちを治め・守り・導いてくださる王であられる”と告白したのである。

 

 モーセの時代、イスラエルは王国ではなく、国王もいなかった。それでも神はモーセを用いて、エジプトからイスラエルの民を救い出し、荒野の道を進ませて約束の地カナンに導かれた。

 

 ダビデ以降、イスラエルは王国時代を迎え、国王が立てられた。王国は王が神に従えば安定するが、王が神に背けば災いを招いた。王がいても、実質的に国を治めていたのは神ご自身であった。

 

 バビロン捕囚の間も、神は預言者を通してみことばを与え、将来に希望を約束された。また神はエルサレムに帰る道を与え、イスラエルに救いと回復を授けられた。このように歴史を紐解く時、“神は王であられる”という神のストーリーが1本の軸のように、歴史を貫いて来たことがわかる。このような神のストーリーは、今も私たちを巻き込みながら広がり続けている。

 

 神は王として、私たちを治めておられる。たとえば神は、その偉大な力で「倒れる者をみな支え」ていてくださる(14)。私たちの日常も、王である神の支えに守られている。また神は「情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵みに富んでおられ」る(8)

 

 主イエスは“気前が良すぎる王”のたとえ話において(マタイ18章)、神の赦しがどんなに大きな規模であるかを語られた。王に対して1万タラント(今日の金額で1兆円とも言われる巨額)の借金をした「しもべ」を王はかわいそうに思い、その場で全額赦したのである。神は王として、人間の常識では理解できないほどの大きな赦しを与えてくださるお方であって、その赦しは主イエスの十字架として私たちに示されている。神の恵みは測り知ることができない(3)。だからこそ、私たちは神をほめたたえるのである。