詩篇20篇1〜9節

「主の御名を誇る」

 

 王と兵士たちが、戦いに出ようとしている。戦況は厳しく、戦車も馬も敵の方が多い。出陣に先立ち、礼拝がささげられる。王と兵士たちは、主の守りと勝利を心から祈る。見送りをする民衆も、心を一つにして礼拝し、神に祈る。民衆が王様のために祈っているのである。「苦難の日に、主があなた(王様のこと)にお答えになりますように」(1)と。「あなた(王)の全焼のいけにえを受け入れてくださいますように」(3)と。王がささげる祈りとささげものを神さまが受け入れ、勝利をお与えくださいますように、と。

 

 こちらの立場が弱く、うまくいく見込みがない時、私たちが優先してなすべきことは何か。それは礼拝である。神に礼拝することを選び取り、神の助けを求めることに最善を尽くす。試みの時、私たちは動揺し、信仰が試される。“礼拝が何になるのか”、“礼拝している場合じゃない”と焦りが出る。しかしだからこそ、礼拝の場に自分を置いてやり、みことばを聞かせてやる。信仰が強いから礼拝するのではない。弱くてジタバタしてしまうから、礼拝が必要なのである。礼拝を通して、神を頼る姿勢を整えていただく。

 

 礼拝を通して、勝利のきざしが民衆をとらえたのか。「私たちは、あなたの勝利を喜び歌いましょう」と賛美が始まる(5)。すると王も、それに応えるように「今こそ、私は知る。主は、油をそそがれた者を、お救いになる」と勝利を宣言する(6)。礼拝を通して王は目が開かれ、“自分を王に立てたのは神であった”という“神がなさった事実”に気付かされ、これを根拠に勇気を得たのである。

 

 信仰とは神を頼ることである。自分頼みの姿勢は「信心」と言いたい。「信仰」とは、目に見えるものを頼みとせず、神がしてくださった事実と神の約束に信頼することである。私たちはわかっていても、目に見えるものを頼りにしてしまう。礼拝を通して、神が私たちにしてくださった恵みの御業を確認し、みことばを通して神の約束を受け取り直す。そして本当に頼るべきものは何であるかを確かめ、神の救いを待ち望む者としていただく。

 

 「私の助けは、天地を造られた主から来る。」(詩篇122:2)本当の助けは神から与えられることを信じて、救いを待ち望もう。