詩篇34篇1〜22節

「主を味わい、見つめよ」

 

 ダビデは自分の人気と活躍をサウル王から妬まれ、命を狙われていた。ダビデはついに、ペリシテ人の町ガテに逃亡することを決意する。これにはダビデの計算があった。国内では自分がよく知られており、いつか捕まると思われること。反面、ペリシテ人は敵対関係にあり、自分を戦士として歓迎してくれると思われた。

 

 ところがダビデの計算は、神によって覆された。ペリシテ人はダビデを取り囲み、すぐに殺そうとしたのである。ダビデは内心、必死に神に祈りながら、捨て身で「気が違ったかのようにふるまい」、何とか難を逃れた。九死に一生を得たダビデは、イスラエル領土内に戻り、荒野の洞窟を隠れ家にしてサウル王の追手から逃げ続けることになった。これは“荒野の学校”と言うべき、神がダビデに与えた信仰の訓練であった。

 

 「私はあらゆる時に主をほめたたえる」とダビデは歌う(1)。ダビデは荒野という逆境を“神からのもの”と受け止め、“この逆境においても主をほめたたえる”と決意した。人は、“いいことがあったから賛美する”というように、神をほめたたえることにおいても自分主体になりやすい。「あらゆる時に」とは、自分主体の信仰をやめ、自分の状況や環境などを“神が与えておられるもの”と受け止め、神に期待することである。

 

 8節には「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ」とある。「主のすばらしさ」とは“主が良いお方であること”であり、「味わう」とは“自分で手を伸ばして経験すること”である。頭で理解するだけでなく、逆境の中でも主の救いを求め、“主が良いお方であること”をわからせてもらえるように祈りたい。

 

 失敗したダビデに、主は救いを用意して待っておられた。神は「心の打ち砕かれた者の近くにおられる」のである(18)。「心の打ち砕かれた者」とは、自分を手放し・神に結果を任せた人のことである。主は私たちにも、救いを用意して待っておられる。どうか、自分が直面していることを、“荒野の学校”として主からのものと受け止めることができますように。そして、主の救いに期待し、主のすばらしさを味わうことができますように。