詩篇41篇1〜13節

「しかし主よ、あなたは」

 

 詩篇41篇の作者は、二重の試みを受けていた。1つは病気という試みである。「主は病の床で彼をささえられる。」(3) 作者は病の中で“主が支えてくださる”という約束を思い起こし、「主よ、あわれんでください」と主に祈る(4)

 

 もう1つの試みは、親友の裏切りである。心を許して信頼している友が、自分を欺くようになった(9)。見舞いに来た時には親友のふりをしているが、外に出ると「いつ彼は死に、その名は滅びるのだろうか」と悪意ある言葉を言いふらす(5,6)。さらには「邪悪なものが彼に取り憑いている」と呪いを口にする(8)

 

 病気になった上、人に裏切られる。これは非常に辛いことであるが、現実に起こり得る。こうなったら、“誰も自分のことをわかってくれない”という思いに囚われ、生きる力を失ってしまう。

 

 しかしこの時、作者は「しかし、主よ。あなたは私をあわれんでください」と祈ることができた。聖霊なる神が、作者の手を取って立ち上がらせ、祈りへと導いてくださった。神の恵みによって、“自分のことを誰もわかってくれなくても、私には神がおられる”ということに目が開かれた。

 

 主イエスは最後の晩餐の場面で、弟子の一人が自分を裏切ることを予告された。主イエスはユダが裏切るとわかっておられたが、ユダの名前を出さずに、9節のみことばを引用してこう言われた。「聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた』と書いてあることは成就するのです。」(ヨハネ13:18)ここで主イエスは、ユダの裏切りは“親友に裏切られるのと同じだ”と言われたのである。

 

 私たち人間は、“裏切りそうな人”を愛することはできない。しかし主イエスは神である。裏切るとわかっても、ユダを愛された。そして親友に裏切られた経験をなさり、その傷のまま十字架で死なれた。それは、私たちが“誰もわかってくれない”と失望の底に沈んでしまうことがあるとしても、そんな私たちをひとりにしないためである。主イエスは「いつくしみ深き 友なるイエス」(新聖歌209)であり、心痛む私たちの隣にいてくださるお方である。