詩篇48篇1〜14節

「この方こそ、まさしく神」

 

 作者はエルサレムを舞台にして、神がなさった御業をほめたたえる。「シオンを巡り、その回りを歩け。…後の時代に語り伝えるために。」(12,13) あの砦、あの城壁、あの神殿において、神がなさったすばらしいことを思い起こせと、読者に語りかける。

 

 「神は…ご自身をやぐらとして示された。」(3)「やぐら」とは、普段は敵の攻撃を見張る場所であり、戦いの時には町を守る最前線となる場所である。神がご自身を「やぐら」として示されたというのは、この世における戦いの最前線に神が立ってくださり、私たちを守ってくださるということである。ヒゼキヤ王の時代、エルサレムがアッシリア軍に包囲された時も、神は「主の使い」を送り、一夜のうちに185千人のアッシリア軍を打たれた。アッシリアの将軍たちは「おじ惑って急いで逃げた」(5)。主が守ってくださったのである。

 

 「私たちは聞いたとおりを、そのまま見た。」(8) 先日の洗礼式を通して、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)というみことばが実現したのを、私たちは「そのまま見た」。まるで、神ご自身が私たちの真ん中にいてくださることを示してくださったような出来事であった。みことばの約束は真実であり、力がある。神は、私たちの教会を舞台にして御業をなしてくださった。その意味において、私たちの教会も「聖なる山」「神の都」である。

 

 私たちの教会が1967年に礼拝を開始して以来、霞ヶ関駅近くにあった以前の会堂、また現在の会堂において、神はどのような御業をしてくださったであろうか。洗礼式が行われ、礼拝でみことばが語られて来た。地上の建物は有限であり、いつかは古びて朽ちるものであるが、神はそのような場所をお用いになり、無限で永遠なる姿を私たちに示してくださった。

 

 「神は私たちをとこしえに導かれる。」(14) 戦いの最前線で私たちを守り、みことばを語り・みことばの実現を見せてくださる神は、まことの羊飼いとして、これからも教会を導いてくださる。「この方こそ、まさしく神」である(14)