詩篇97篇1〜12節

「世界には光が蒔かれている」

 

 「主は、王だ。」(1) 私たちは「王」という言葉に、あまりリアリティを感じないかもしれない。しかし聖書は「王」という言葉を使って、“主なる神が全世界を治めておられること”を示している。神はどのような仕方で世界を治めておられるのだろうか。

 

 「光は正しい者のために、種のように蒔かれている。」(11)神は世界に「光」を「蒔いて」おられる。この「光」とは、救いのことである。神は世を愛され、すべての人が救われることを願っておられる。そのために神はイエス・キリストを遣わされ、あの十字架でそのいのちを犠牲にして、私たちが救われる道を与えてくださった。そのようにして、神は私たち一人ひとりを大切に思い、“生きて欲しい”と願っておられるのである。

 

 このような救い(=光)が、今も世界に「種のように蒔かれている」。神は、みことばを通して語っておられる。教会を通して、神の救いがあることを世に知らせておられる。「わたしの父は今に至るまで働いておられます」と主イエスが語ったように、神は今も、救いのために働いておられる(ヨハネ5:17)。それ故、神はパウロに「恐れないで語り続けなさい。黙ってはいけない」と、その伝道活動を激励された(使徒18:9)。神は王として、この世を見捨てることなく働き続けておられる。

 

 「主を愛する者たちよ。悪を憎め。」(10)神は「主を愛する者」となるように、私たちを招く。私たちはその自己中心性によって神に背を向け、自分を神とするような者である。しかし神の御前に出る時、私たちの高ぶりは、「ろうのように」溶かされる(5)。「主を愛する者」とは、自分の意地を捨て、この世の悪や自分の汚れと戦う者である。罪に負けても神に悔い改め、みことばを信頼して神に従おうとする。そして「主を愛する者」は、主が王として「聖徒たちのいのちを守」ってくださることに感謝する(10)

 

 「光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。」(11)私たちには、救いのために働く神がおられる。このみことばを希望にして、この世の旅路を一歩ずつ進みたい。