雅歌1章1〜17節

「神の愛に応えて」

 

 雅歌は人を愛する心を歌った歌である。人を愛する喜び、切なさ、気持ちがすれ違う痛みが歌われている。登場人物は「娘」と「羊飼い」、そして「エルサレムの娘たち」である。

 

 娘が語り始める。「あの方が私に口づけしてくださったらよいのに。」(2) 娘は羊飼いに口づけされることを想像して夢心地になりながら、羊飼いに“会いたい”と熱望している。

 

 “娘と羊飼いの関係”を“キリスト者(教会)と主イエスの関係”に置き換えて読むと、ここでは、“私たちは主イエスに会う願いを持っているだろうか”と問われる。キリスト者はやがて、“顔と顔を合わせるようにして”主イエスに出会う。その時を前向きな気持ちで待ち望んでいるか。もしくは、“そういう時が来てしまうのか”と、後ろ向きな気持ちで、その時を思うのか。

 

 新しい年を迎えたということは、主イエスの再臨がまた1年早まったということを意味する。私たちは福音によって主を待ち望む姿勢を作っていただき、「マラナ・タ」と主を待ち望む心で日々を過ごしていきたい。

 

 羊飼いも「わが愛する者よ」と娘への愛を語る(2)。そして「パロの戦車の雌馬」「飾り輪」「首飾り」と言って娘の美しさをほめたたえる(911)。羊飼いは心から娘を愛して、娘の存在を喜んでいる。娘は自分が日焼けによって黒くなっていることを恥じているが、羊飼いにはそれは全く問題になっていない。

 

 私たちは何かしらの欠点や弱さなど、恥ずかしく思うことを持っている。しかし神は私たちを心から愛して、私という一人の存在を喜んでいてくださる。神は私が恥と思うことでもまったく構うことなく、私のことを喜んでくださる。

 

 娘は「私の愛する方。あなたは何と美しく、慕わしい方でしょう」と羊飼いの愛を受け止め、その愛に応答している(16)。愛は相手からの応答があって初めて成立する。

 

 私たちも神の愛に応えよう。そのためにはまず、神の愛を信じること。そして日々の生活の中で、まるで宝探しをするように神の愛を見つけていき、その愛を喜ぶ。それが私たちの応答である。