雅歌5章1〜8節

「私の愛する方」

 

 雅歌は、「羊飼い」と「娘」が互いに惹かれ合いながら結婚へ至る、男性と女性の愛を奏でる歌である。4章で相手への想いを歌い上げた二人は、5:1で夫婦として結ばれる。「没薬と香料」は“香り”を、「蜂の巣と蜂蜜」は“甘さ”を、「ぶどう酒と乳」は“夢中さ”を表していると思われる。

 5:28は、いくつかの読み方が考えられる。“妻の見た夢”と読む者、“花婿のキリストと花嫁である教会の関係”と読む者、“帰宅時間に遅れた夫”と読む者など。いずれの読み方にも妥当性があるが、ここでは“夫婦となった二人のすれ違い”として読む。

 ある夜、妻が眠りかけていると、夫が「戸をあけておくれ」と関係を求めてきた。しかし妻は躊躇してしまう。気持ちを切り替えて夫に向き直ると、夫は「背を向けて去って」しまう。愛し合っている二人であったが、互いの気持ちはすれ違ってしまう。

 すれ違いの原因は明らかだった。互いに「私」を主張しすぎたのである。夫は「わが妹、わが愛する者よ」(2)と、溢れんばかりの相手への愛情を歌っているが、その背後に「私」の願いを実現したいという思いがある。妻も「(私の)着物」「(私の)足」と、「私」の都合を優先させてしまう。互いに想い合っている夫婦でも、愛する相手を支配しようとしてしまう、罪の影響を受けていることがわかる。

 主イエスは、十字架の直前、弟子たちの足を洗った。弟子たちは驚いた。それは奴隷の仕事であったが、主イエスは神の愛を伝えようとされた。これは神直伝の“支配しない愛”であった。

 パウロは主イエスを信じるまで、キリスト者を迫害していた。主イエスに罰せられるはずの自分が、“支配しない愛”で愛された。パウロは「愛は寛容であり、愛は親切です…」と“支配しない愛”を歌う。この愛で、私たちも神に愛されている。“支配しない愛”で他者を愛することによって、神の国は打ち立てられ広がっていく。

 

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。」(Ⅰコリント13:4