ヨハネの黙示録9章1〜21節

「第5のラッパと第6のラッパ」

 

 神がヨハネに見せた幻は、世の終わりに関するものであった。幻は多くの謎に満ちているが、旧約聖書の出来事をイメージさせることで、そのメッセージを受け取ることができる。

 

 第5のラッパでは、一つの星が地に落ちると底知れぬ穴が開き、そこから立ち上る煙とイナゴの大群が出て来た。この煙は、神の裁きを受けたソドムとゴモラの滅亡を思わせるものであり、終末の時が近いことを予告するサインである。イナゴの大群は、出エジプトの時にエジプトを懲らしめる災いとして登場しており、これも神の裁きが始まるサインである。

 

 このイナゴは通常のイナゴと違い、人間を襲う。その尾にはサソリのような毒針があり、サソリに刺されたような苦痛のために自ら死を求めると言われる。ただし、この苦しみは5ヶ月間に限られており、しかも「額に神の印を押されていない人間にだけ害を加えるように」命じられていた(4)。

 

 キリスト者は、目に見えない「神の印」を押されている。これは、“神のものとされている”という意味である。主イエスは信じる者のすべてを御手の中に保ち、天の御国までその歩みを守ってくださる。出エジプトの時、子羊の血を塗った家は災いに遭うことなく、災いが過ぎ越した。これと同様に、キリスト者は主イエスが十字架で血によって贖われている。主イエスを信じる信仰によって、キリスト者はイナゴの災いから守られる。

 

 キリスト者が災いから守られるのは、主イエスの救いを証しするためである。アブラハムはソドムとゴモラの裁きの時、神に掛け合い、救いを願った。私たちも聖霊の助けをいただいて、人々の救いのために祈り、主イエスの救いを証ししたい。

 

 世の終わりに対して、私たちは神に忠実である者でありたい。私たちは信仰においても結果を求めてしまう。結果を握ったまま神に従おうとすると、それは“ちゃんとしますから、こうしてください”という取り引きになってしまう。忠実であることは結果よりも“結果が出るまでの途中経過”を大切にすることである。今日という日を神と共に生きること、これが世の終わりの備えになる。