歴代誌第一 12章16〜18節

「あなたに平安があるように」

 

 ダビデはサウル王から命を狙われ、要害(地形の険しい場所)に身を潜めた。ところが、そんなダビデのもとに人が集まって来る。その数は400人、600人となり(Ⅰサムエル22,23)、さらに増し加わったであろう。これはダビデにとって心強いことであったが、その反面、難しさもあった。自分が欺かれて、サウルの手に引き渡されることを恐れたからである。ダビデは神の守りと導きに信頼しつつ、集まった人々を受け入れようとした。

 

 ところがその時、御霊が働いてみことばが語られた。「平安があるように。あなたに平安があるように。あなたを助ける者に平安があるように。」(18) 神の平安が与えられたのである。

 

 ダビデには穏やかな日々は無かった。荒野を逃げ続ける生活は、心を擦り減らした。一般的な意味での平安は失われていたのである。しかし神は、疲れ果てていたダビデに対して、“わたしがあなたと共にいるではないか、わたしがあなたに平安を与える”と、神ご自身が名乗り出るようにして語ってくださった。ダビデは神の平安をいただき、どれだけ慰められただろうか。

 

 神の平安は、ダビデと志を共にする仲間たちに及んだ。一同は「まことにあなたの神はあなたを助ける」とみことばをいただき、荒野の逃亡生活を神が助けてくださると確信した。このように、神の平安は当人から隣人へと広がる傾向を有している。

 

 コロナ禍において、つい自分の安全を守ろうとするあまり、自己中心的になりやすい今日である。信仰においても、隣人の存在を忘れ、自己満足型の信仰に陥りやすい。自分の心ばかりに目を向けていると、神の平安は溶けて消えてしまう。瞬く間に平安は失われ、不安と恐れが心を覆う。神の平安は、自分だけのものにしないで、誰かと分かち合うために与えられているのである。

 

 平安をいただいた私たちは、誰かの味方になるように導かれている。その人と相対するのではなく、その人と並んで、その人の側に立つ。そこから見える景色を共に見、そこで聴こえる言葉を共に聞く。そうやって誰かの味方になることによって、神の平安は私から誰かへと広がり行く。