歴代誌第一 26章1〜11節

「門衛の詩(うた)」

 

 歴代誌第一26章には、ダビデの時代における神殿の門衛の組分けが記されている。神殿の門衛は、礼拝が神さまの御心の通りに行われるよう、神殿の秩序を守る働きを任されていた。その組分けを見ると、「勇士」「勇者」という言葉が目に留まる。門衛は勇敢な人物でなければ務まらなかったのである。

 

 詩篇130篇には、門衛が“主を待ち望む人”の例として登場する。「私のたましいは、夜回りが夜明けを待つのにまさり、…主を待ちます。」(130:6) 夜回りとは門衛のことである。門衛は、神殿を警備するために夜回りをしたのである。

 

 門衛は夜明けを待ち望む。早く眠りたいからではない。朝になれば礼拝の時があり、神さまにお会いするからである。この詩人は、神にお会いするのを待ち望んでいる。なぜなら、彼は「深い淵」にいるからである(1)

 

 深い淵は、文字通り「深い」のであり、容易に抜け出すことができない。八方塞がりになり、堂々巡りの悪循環を繰り返す。しかも深い淵にいると、自分の不義に目が留まり、神に罰せられ・見捨てられたかのように神を遠く感じる。

 

 しかし詩人は、深い淵から神を呼ぶ(1)。それは彼の独り言・単なるつぶやきではない。彼は深い淵において、神と出会おうとする。実に私たちの救い主は、神のひとり子であるが人となってくださった。人として悩み、神に裁かれて死なれた。主イエスは、深い淵にいる私たちのところに降って来てくださるお方である。そして、みことばを与えて、深い淵にいる私たちに神のいのちを届けてくださる(5)。詩人は「夜回りが夜明けを待つのにまさり」主がみことばによって触れてくださるのを待ち臨んでいる。

 

 私たちの主は、深い淵から引き上げるように救ってくださる。病が回復する、痛みが癒やされる、悩みが解決する…そういう“引き上げられる救い”がある。しかし主には、“引き上げない救い”もある。深い淵のような病や痛みの中で、主は出会ってくださる。深い淵のような悩みを通して、その渦中でなければ得られない、みことばとの出会いを与えてくださるのである。