歴代誌第二 4章1〜10節

「神の中に生き、動き、存在する」

 

 ソロモンは神殿建設を開始した。3章では本堂と至聖所、ケルビム、神殿入口の2本の柱について記されている。4章では、いけにえをささげる祭壇、祭司が身を清める「鋳物の海」、いけにえを洗い清める洗盤、神殿内に置かれた燭台と机などの記録がある。

 

 中でも「鋳物の海」は目を引く。直径4.4mの円形で、高さは2.2m。大量の水を入れることができることから「海」という名前が付けられたようである。祭司たちは、礼拝の奉仕で神さまの御前に出るたびに、「鋳物の海」で手足を洗って身を清めた。

 

 私たちも礼拝において神の御前に出る。この時、私たちは罪赦された者とされたことを思い起こしたい。自分の罪を悔い改め・告白しつつ、主イエスによって罪赦された者とされていることを思い起こして、御前に進み出る。

 

 忘れてはならないことがある。それは、私たちが悔い改めるより先に、神が大きな心で私たちを待っていてくださるということである。私たちが背を向けていた時から、父なる神は主イエスの贖いを備えていてくださった。神が無限の赦しを備えて待っていてくださるからこそ、私たちは心安らかに悔い改めることができ、大胆に神の恵みを求めて、御前に出て礼拝することができる。

 

 神殿建設に使われた財宝は、ダビデが備えたものであった。その中には、ダビデ自身がささげた大量の金と銀もあった。ダビデはこう祈っている。「まことに、私は何者なのでしょう。…このように、みずから進んでささげる力を保っていたとしても。すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手から出たものをささげたにすぎません。」(Ⅰ歴29:14)神へのささげものも、神が備えてくださったものが前提にあると告白したのである。

 

 私たちの悔い改めも、神の赦しがあってこそ、できるもの。私たちのささげものも、神がくださったものからお返ししたもの。私たちの営みのすべてが、神がくださったものにおいて支えられている。実に「私たちは神の中に生き、動き、また存在している」のである(使徒17:28)。神がくださったものを神にささげて、ささげられたことに感謝する、それが私たちの礼拝である。